管理職養成12回コース

齋藤信のカミングアウト

FROM:齋藤 信

 

実は今日は皆さんに話があります。
これは、僕自身がタブーとしていたことで、
今まで、この事実を話した人は、妻と、仲村会長だけです。

そう、前の職場でもこの事実を一切話した事はありませんでした。

そのくらいに、僕の中では他の人に非常に言い辛く、
またもの凄く辛い過去との対峙になるんです。

……ええ、これ以上引っ張りません。

その事実とは……

『僕は、元てんかん患者でした』

そうですよね。

驚いた方も沢山いますよね。
ですが、これは事実です。

小学校2年生……8歳の時から25歳まで……

実に17年もの間、僕はテグレトールという薬を服用しながら生活していました。

その量、最大時は1050mg/日。

精神医学の教科書等で見た事がある方はご存知でしょうが、
一日の最大投薬量は1200mgです。

その量の多さに更に驚いちゃいました?

ですが、今は治療が終わり、薬は飲んでいないのでご心配なく。

 

そう、正確に話すなら、

僕は23歳……四年生の臨床実習の真っ最中に、
難治性てんかんではなく、小児性てんかんの可能性ありとの診断をもらい、
既に完治しているという予測がされました。

減薬から断薬まで1年。
断薬以降、発作が起きないという確定診断まで1年。
治療に2年ほど時間をかけました。

その結果、見事、僕は小児性てんかんであり、今後発作の心配が無いという診断となったんですね。

 

まあ、ここまでの話なら、

『別に大した事ないじゃない、今大丈夫なんでしょ?』

の一言で終わっちゃいますよね。

実際、僕が臨床実習中に、バイザーから言われた言葉です。
正直、『そりゃあ、そうだけど……』と思ったものです。

甘ちゃんでしたね。

正直な話、僕が医療業界に進んだのも、
自分の病気をカミングアウトしても、
みんなに理解してもらえるという甘い考えがあったからです。

ですが、それは全くの真逆でした。

知っているだけに、
医療人が病気を持っている事に対する風当たりがもの凄く強かったんです。
その事を、僕は臨床実習で不可をもらった時に気付きました。

そりゃあ、そうですよね。

当時の医療人の皆さんって、患者さんを治療してあげている。
っていう上から目線。
医療人は病気になってはイケナイらしいです。

しかも、いわゆる脳にダイレクトに効いてしまう薬については知識だけ。
飲んで試した事がある人なんて、ほとんどいませんから。

 

8歳から25歳までの間、
僕の脳がどんな状態だったかなんて
想像もつきませんよね。
ん~なんて言えば説明出来るかな?

 ・目が開いているけど、物が見えていない。
 ・常に頭の中に霞がかかっている。
 ・抵抗出来ない眠気との戦い。
 ・身体がだるく、やる気が出ない。
 ・時々、原因不明な不快感に襲われる。
 ・人の言っていることが一度で理解できない。
 ・みんながすぐに出来る事が、自分はできない。
 ・そもそも集中できない。

こんな状況のなか、毎日を過ごしてきました。

一番辛かった思い出は、
時期はぼやけてますが、たしか小学校高学年の遠足。
処方薬の量を調整中だったため、
遠足の日にちょうど大きな副作用が出てしまったんです。

美術館への徒歩での遠足。

まず、学校についた頃に丁度薬が回ってきたのか、
目のピントが合わなくなってしまいました。

おかしいな……

と思いつつも、子供心にみんなと一緒にいたかったため、
そのまま遠足にでたのですが……

途中から目の前がグルグルと回りだし、
まともに歩けない状況。

でも、それがバレると帰されてしまうと思い、
無理矢理まっすぐあるって、美術館まで行きました。

春の良い日だったため、綺麗な花畑や景色を見ながらだったようなのですが、
僕には黄色く回り続ける景色と、今思えば散瞳していたんですね。

まぶしすぎる世界にクラクラしていました。

美術館についても何を見たのかさっぱり。

帰る頃になり、ようやく薬が抜けてきたのか、
帰路自体は苦労した記憶がありませんでした。
あまり身体を動かさなくても趣味にできる
マンガや絵を描くことが大好きだった僕にしてみれば、
かなり残念でした。

その後も、中学や高校の勉強も人並み以下。

今思えば、よくもまあ高校に受かったもんだ。
親が口を酸っぱくして勉強しろと言っていたのが
今ならよくわかります。
そう、それにね。

薬を毎日飲んでいると、次第に気持ちがネガティブになってきます。
中学頃からかな?

僕は『きっと長生き出来ないんだろうな』と思うようになりました。

当時はネットなんてありませんからね。
自分の病気について知る機会は
医者と話すときくらい。
本当のことを言ってもらえているのかなんて
一切わからず、
いつしか『僕はきっと死ぬんだ』とか思い込んでいたものです。

あの頃の僕のなかに強く残っている言葉は、
たしかバアちゃんから教えてもらった言葉です。

 

『虎は死んだら毛皮を残す。人は死んだら名前を残す。そんな大人になりなさい』

 

僕の病気のことを知ってて言ってくれたのか、
それともたまたまだったのかは、今となってはわかりません。
ですが、強く印象に残っており、
『自分が死んだら何が残せるんだろう?』
『自分が死ぬ前に世の中に何か残せるのかな?』
そんな事を心のどこかで常に考えていました。

 

バアちゃんはもの凄く気にする性格だったから、
天国からこの文章を読まれたら気に病んでしまうかもしれませんね。
でも、結果的に今の僕の思考回路の元になっているんで、
気に病まないでほしいな。

 

そう、これが僕のティーンエイジ。

 

無事(?)成人してからがもっと大変だったんですけどね。
先も言いましたが、
医療職についたら僕の病気について知ることも出来るし、
知っている人も沢山いる。

理解してもらえるんじゃないかと、甘い考えで作業療法士の養成校に入りました。

いっちょまえにやる気だけはあったので、
6年間専門学校に通っていて、遅刻は大雪の1回だけ。

遅刻しない自信だけはありました(笑)

 

でも、勉強はというと、
何を言っているのかがワカラナイ。

 

宿題とか課題がだされても、同級生以上に時間がかかる。
同級生との会話も食い違いが起きるし、相手の期待していることを察知したり、共感できない。

 

相手の名前と顔を一致させて覚えられず、
教室ではなるべく一番後の席になるように工夫し、
教卓に置かれた座席表をコッソリコピーし、
それを見ながら名前を覚えていったりとかしてました。

 

まあ、そんな感じの奴なものだから、
気にして構ってくれる同級生と、そうでもない人とに完全に分かれていた……のかな?
そういう意味じゃ、今でも僕を見つけると声をかけてくれる当時の同級生って、
ありがたいな~とか思います。

 

ですが、現実は現実。

 

まず、3年生で勉強に限界が来てしまいました。
さっぱりワケがわからなくなり、本当にこのまま勉強していっていいのか悩みました。

 

当時は親から言われたからこの学校に入った、という思考の迷路に陥ってましたね。
親は当時最良の選択肢を示してくれただけ。
1995年3月28日に合格の電話が来て、
『受かったけど、入学する?』
と学校の事務局に訊かれ
『はい』と返事をしたのは僕なのにね。

 
おっと、時代が前後してしまいました。

 
まあ、とにかく、
僕はそのタイミングで1回目の留年をしました。

 
理由は、学力が足りず、12月の進級試験に不合格。
1月からの治療実習のGOが出ませんでした。
でも、おかげで同じ事を2年かけて学んだ結果、
どうにか2回目の3年生は進級試験に合格。

 
治療実習は……バイザーと一緒に実習をした同級生に恵まれてどうにか可。
晴れて四年生になったので、
勉強する内容はもうほとんどなく、
国家試験対策と研究法のみ。

 

夏の臨床実習は精神科でOKをもらい、
2種ある卒論もどうにか撃破!

 

更に夏休み中に就職先を決めちゃいました。

 

でも、悪夢は忘れた頃にやってきました。
後期実習では、当時は放置されている印象でしたが、
今で言えば学生の自主性に任せる実習地ということかな。
突然右も左もわからず、ケースを2例預けられて、いっぱいいっぱい。
加えて、薬の影響での認識力の低さ、論理的思考力の低さ、
とにかく、テストをして情報を手に入れても、
それらを関連させたり、統合することが全く出来ませんでした。

 

もはや指導というより指摘のオンパレード。

『あなたに作業療法士になってほしくない』

とハッキリ言われました。

 

もう、その頃は僕のセルフイメージはズタボロです。
何を書いてきてもダメ出しばかりで、
何がダメなのか理解できず、
実習最後の日に『不可』をもらって、

『(ようやくこの現場から離れられる)ありがとうございました』

とか言っちゃった位におかしくなってました。

 

当然、再びの留年です。

 

4月の4年生再開までの時間、
教官とその実習とレポートを振り返りましたが、
その内容は良くなるはずもなく、
結局何か成長出来たのかもわからないまま、
再び実習と卒論の日々。

 

実習を元同級生の先輩OT達に助けられつつ、乗り切ることが出来たんですね。

 

そして、もう一つ新たなご縁がありました。
新しい教官が、専門の病院を紹介してくれたんです。
そう、それからです。

 

先に話したとおり、診断を受け、後期実習の途中から、
薬の量が半分になったんです。

 

この事がどれだけ凄いことかわかりますか?

 

薬が半分になっただけで、
頭の中のもやが晴れて来たんです。

 

『今まで、なんでこんなしょうもないことが分らなかったんだろう!』

今まで無理矢理勉強してきたことが一気に脳内を駆け巡り、繋がらなかった事実がガッチリかみ合っていくんです。

頭の中で、パズルのピースがパチパチ音を立てながら
スキマが埋まっていくんです。

 

そう、それが4年生の11月2日のことでしたから、国家試験まで残すところ3ヶ月ほど。

 

これまでの6年間を取り戻すかのように今まででは考えたことが無い位に集中できました。
まあ、おかげさまで晴れて国家試験合格。

 

そのまま紹介してもらった専門病院にてOTとして就職。
減薬治療を行ないながら働くことになりました。

 

 

まあ、ひとまずここまでにしましょうか。
これが、僕が今まで、誰にも話さずにきたことです。

 

今の僕を知っている人は、
僕が昔は落ちこぼれだったと言っても信じてくれないのも道理ですよね。
ほぼ別人ですからね。

 

精神科で使われている薬は、飲んだことがある人にしか
その影響力の大きさってわかりませんものね。

 

でも、まあ、医療人が医療人の病気に優しくないってことが
凄くトラウマになっていたので、当時は結局突っ張って、虚勢を張って、
普通の人として見てもらいたくていたのかな。

実際、治療が終わって臨床に出た当時は、それを引きずっていました。

なので、

『僕に出来たことが、薬を飲んでない人に出来ないなんておかしい』

とか、本気で思ってましたね。

 

 

悪い意味で自信をもっちゃってたのが臨床6年目位まで……
ですが、ま、その話はまた今度にしましょう。

今回は、滅茶苦茶に重ぉぉぉい話をしてしまいました。

気分を害された方がおりましたら申し訳ない。

ですが、僕は今回このタブーに立ち向かうことで、

 ・僕が本当に助けたい人は誰なのか?
 ・僕が救える人は誰なんだろう?
 ・僕が本当にしたいことは何なんだろう?

この事を考えるキッカケになりました。

僕は……

 ・勉強で苦労しました。
 ・臨床実習で苦労しました。
 ・薬で苦労しました。

だから、

 ・勉強で困っている人を助けたい。
 ・臨床実習や臨床教育に悩む人を助けたい。
 ・薬に頼らない治療ができる作業療法の可能性を伝えたい。

そう、本気で思えるようになりました。

 

こんな僕だから、僕の視点で伝えられることがある。
僕だから救える人がいて、僕がこういった情報を発信することで救われる人がいる。
どう頑張っても、僕は僕でしかなく、
言ってみれば、
僕が僕である為に、僕が救いたくて、救える人を救う。

 

ワガママで結構。

 

僕の行動で必ず世の中が変わるとか、救えるとか大言壮語を吐くつもりもありません。
でも、僕は僕の行動で少しでも世の中が変わり、救われる人がいると思っています。

 

僕の名前は、『信じる』と書いて『まこと』
僕は、僕のことを信じて進む。

ただ、それだけです。

長文、失礼しました。

 

齋藤 信 

 

 

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ABOUTこの記事をかいた人

精神科にて13年勤務し、心身へのアプローチ法を習得、実践して来た。
IAIR顧問の仲村に師事。認定アドバンスインストラクターとなる。
2013年に独立し、精神科作業療法士に自信を取り戻してもらう事を目的に、齋藤の行ってきた作業療法の構成法や身体アプローチ法を伝える講習会活動を本格的に開始。年間のべ1000人以上の療法士に教鞭をふるう。
より科学的なエビデンスをアクティビティに取り入れるため、セロトニン研究の第一人者東邦大学名誉教授有田秀穂医師、脳と学習の世界的権威トニーブザン氏らに師事。精神科で行われている作業療法やレクリエーション、集団セッションの可能性が大きく広がる。